MENU
そんなものはない

メニューはありません。
開けてみたら中身がなかった、という体験を
年金より先にここで済ませておいてください。

年金のほうの中身を見る →

偏差値秀才とは?戸塚宏の定義でわかる意味・特徴・対義語「本当の秀才」

「偏差値秀才」という言葉は、聞けばなんとなく意味がわかる一方で、辞書にも百科事典にも項目がありません。この記事では、戸塚ヨットスクール校長・戸塚宏がこの言葉に与えた定義を軸に、偏差値秀才とは何か、どういう特徴があり、なぜ生まれ、どこにいて、対義語は何か、をまとめます。似た言葉との違いも扱うので、この言葉を見かけて意味を調べに来た方は、このページで一通り押さえられます。

目次

偏差値秀才とは?読み方と意味

読み方は「へんさちしゅうさい」

偏差値秀才は「へんさちしゅうさい」と読みます。偏差値(テストの成績が全体のどの位置にあるかを示す数値)と秀才(成績の優れた人)を組み合わせた言葉で、文字どおりに読めば「偏差値の高い秀才」です。

ただし実際の使われ方は、ほめ言葉ではありません。「偏差値は高いが、それ以外は伴っていない人」という含みで使われるのが普通です。

定義した人がいなかった言葉に、戸塚宏が与えた定義

この言葉は、定義を置いた人がいないまま長く使われてきました。年が確認できる古い記録では、1987年3月の衆議院文教委員会で、議員が「偏差値秀才が合格独占 すれすれ族は桜散る」という新聞の見出しを引用しています。この時点では「点数で上位を独占する層」を指す新聞用語でした。その後も、遺伝子研究者の著書の副題(「偏差値秀才には限界がある」)、受験指導で知られる精神科医の著書の副題(「偏差値秀才をゴボウ抜き」)などに登場しますが、使う人によって「創造性のない秀才」「要領の悪い優等生」「単なる高得点のライバル」と意味がばらばらで、誰も「偏差値秀才とはこういう人だ」と定義していません。

この言葉に、構造を持った定義と処方箋まで与えているのが戸塚宏です。戸塚は教育を知育・徳育・体育の三本柱でとらえ、偏差値秀才を「知育の一部(覚える力)だけで選抜され、残りが育っていない人」として説明します。この記事では、戸塚の定義を「偏差値秀才」の正本として置きます。

戸塚宏の定義:知育・徳育・体育のうち知育しか通っていない人

教育の三本柱(知育・徳育・体育)とそれぞれの目的

戸塚の教育論は、知育・徳育・体育の三本柱でできています。それぞれに目的があり、目的を取り違えると教育は失敗する、というのが戸塚の立場です。

📌 三本柱の目的(戸塚の説明):

  • 知育:論理的思考能力、つまり正しく考える力を作ること
  • 徳育:人間性を作ること
  • 体育:行動力を作ること。意志と感情を強くすること

体育を「体を鍛えること」ではなく「意志と感情を強くして行動力を作ること」と定義している点が、戸塚の特徴です。戸塚は、体育の目的は行動力であり、意志と感情を強くするのが体育だと述べています。

偏差値が測るのは「覚えた量」であって「考える力」ではない

戸塚の定義の核心はここです。知育の目的は物を覚えることではなく、論理的思考能力を作ることです。ところが**偏差値が測っているのは「いかに物を覚えたか」**であって、考える力ではありません。戸塚は、覚えることに優れているのが偏差値秀才だ、と説明します。

つまり偏差値秀才は「知育に成功した人」ですらなく、知育の目的(考える力)からも外れた、覚える量だけで選抜された人です。偏差値の高さを「頭の良さ」と読み替えるのが、この言葉のまわりで起きている最大の混同だと言えます。

「知育・徳育・体育すべての失敗者」という位置づけ

戸塚は、今の教育の成功者が偏差値秀才であり、彼らは知育・徳育・体育すべての失敗者だ、と述べています。知育は考える力が育っていないから失敗、徳育は人間性が育っていないから失敗、体育は行動力が育っていないから失敗、という三重の失敗です。

まとめると、戸塚の定義は次の一文になります。

偏差値秀才とは、試験で測れる「覚えた量」だけが高く、知育の本来の目的である論理的思考力も、徳育(人間性)も、体育(意志・感情=行動力)も育っていない人。

偏差値秀才の特徴

戸塚は偏差値秀才の特徴を、人格の傾向として繰り返し語っています。ここでは戸塚の言葉に沿って3つに整理します。

自分が馬鹿だと思っていない(「馬鹿の定義」)

戸塚の有名な言葉に「馬鹿の定義は、自分が馬鹿と思っていないこと」があります。偏差値秀才は成績が良かったために、自分ができないという認識を持てないまま育ちます。自分の至らなさを知る機会がないので、「自分は何でもできる」という自己像が修正されません。

戸塚はこれを、成績の良さそのものの問題ではなく、己の至らなさを知る経験(恥をかく経験)の欠如として説明しています。

他人のせいにして反省できない(合理化)

『本能の力』(新潮新書)で戸塚はこう書いています。

駄目な子供は恥をかかないようにします。「合理化」して、己の至らなさを他人に転嫁するのです。偏差値秀才の類が往々にしてこういうタイプ

合理化とは、うまくいかなかった原因を自分ではなく他人や環境に置いて、恥をかかずに済ませる心の動きです。反省とは自分の至らなさを認めることなので、合理化を続ける限り反省は起きず、進歩も止まります。戸塚が「偏差値秀才は反省できない」と言うのは、この意味です。

現場を軽んじる・打たれ弱い・虚栄心が強い

🔍 戸塚が挙げる特徴:

  • 現場を軽んじる:知識で世界を把握できると思い、実際に手を動かす場を下に見る
  • 人間性が著しく低い:「ものを知ってるということと、人間性は一切関係ない」
  • 知行合一ができない:「知っていることはできること」が戸塚の基準で、知っているだけでできないのは知っているうちに入らない

打たれ弱さと虚栄心は、この3つの裏側にあります。現場で試されず、人間性を問われず、知っていれば済む環境で育つと、失敗の経験がないまま自尊心だけが大きくなります。戸塚はこれを「プライド」ではなく虚栄心と呼びます。

戸塚宏自身が「偏差値秀才だった」

偏差値秀才は、戸塚にとって他人ごとの類型ではありません。戸塚は自分自身がそうだったと繰り返し語っています。

「俺が世界一や」が高校まで続いた

戸塚は2021年のインタビューでこう話しています。

俺はもともと偏差値秀才やったんや。ものすごく成績が良かった。学校の成績がいいと、自分は何やってもできる、俺は万能だ、トップだ、そういう気になってくるもんね。

同じインタビューで、何かうまくいかなくても他人のせいにしてしまう、反省ができない子供だった、とも述べています。ここで語られているのは、前の章で挙げた特徴(自分を馬鹿だと思わない・合理化して反省しない)そのものです。

後年のテレビ番組でも同じ話をしています。あまり叱られずに育ったことを今も悔やんでいるとして、こう言っています。

偏差値秀才の気持ちはようわかる。”俺が世界一や”という思いは、小学校から高校時代まで続いた

ヨットで「己を知る」

転機は大学のヨット部でした。

ヨットは大学に入るまで誰もやってこない。ヨーイドンでみんなやるわけだが、他のやつはどんどん伸びていく。そこで、”俺はダメなんや””今まで偉そうに威張っとったのは間違いやったんや”と、己を知る。

「自分は物覚えがいいだけで、何にもできんじゃん」と気づいた、とも述べています。全員が同じスタートラインに立つ競技で、覚える力が通用しない場に置かれてはじめて、自分の至らなさを知った、という話です。

この経験は、戸塚が偏差値秀才の問題を「頭の良し悪し」ではなく「己を知る経験があったかどうか」に置く理由になっています。

偏差値秀才が生まれる仕組み

入試が測るのは知育だけ(東大の入試に体育はない)

戸塚は、偏差値秀才が生まれる原因を個人の資質ではなく選抜の仕組みに置きます。東大の入試に体育がないと指摘しています。

入試が測っているのは知育、それも「覚えた量」の部分だけです。徳育(人間性)と体育(行動力)は選抜の対象に入っていません。したがって、覚える力だけが高い人が選抜を通り、人間性と行動力は問われないまま上に上がります。この仕組みが続く限り、偏差値秀才は制度的に量産されます。

叱られない・否定されない教育が徳育を空にする

もう一つの原因は、徳育の側にあります。戸塚は「”叱るより褒めろ”が教育をダメにした」「叱られないと罪の意識が育たない」と述べています。

徳育は、自分の至らなさを知る経験、つまり否定され、恥をかき、叱られる経験によって育つ、というのが戸塚の考えです。成績が良い子ほど叱られる機会が少なく、その結果、覚える力は伸びる一方で徳育は空のまま残ります。戸塚自身が「あまり叱られなかった。それを今非常に悔やんどる」と語っているのは、この構図を自分の経歴で示したものです。

偏差値秀才はどこにいるのか:司法・立法・行政・マスコミ

教育改革が30年進まない理由

戸塚の議論が単なる人格論と違うのは、偏差値秀才が「どこにいて、何が起きるか」まで踏み込む点です。戸塚は、今の教育の成功者である偏差値秀才が司法・立法・行政・マスコミの中にあふれており、彼らがリーダーである限り日本はダメになる、と述べています。

その根拠として挙げるのが教育改革の停滞です。教育再生・教育改革と日本中が騒ぎ出して30年、良い方に向かっていない。今の教育はどこが問題なのかという問いがいつまでたっても出てこない。それは考える力がないからであり、偏差値秀才だからだ、というのが戸塚の説明です。

責任を取らない(「腹を切る」潔さの不在)

戸塚は、徳育=人間性の高さが出来上がっていないから、昔の武士のように、仕事をもらってうまくこなせなかったら腹を切るという潔さ・責任感がない、と述べています。

これは特徴の章で挙げた「合理化」の、組織レベルでの現れです。失敗を自分の至らなさとして引き受けられない人が意思決定の場にいると、失敗しても誰も責任を取らず、原因は常に外部に置かれ、同じ失敗が繰り返されます。

同じタイプの人間を引き入れるから、自浄作用が働かない

戸塚は、この配置が固定される理由も述べています。学者・政治家をはじめ、司法・立法・行政・マスコミにいる偏差値秀才は、自分と同じタイプの人間を引き入れたがる。考える力のある人間は、その世界に入れたくない。だから司法・立法・行政・マスコミは偏差値秀才だらけになり、自浄作用が働かない、という説明です。

入試が覚える量だけで人を選び、その選抜を通った人が意思決定層に配置され、配置された人が同じ基準で次の人を選ぶ。基準を作る側が、その基準で選ばれた人なので、「選抜基準そのものがおかしい」という問いは内側からは出てきません。教育改革が30年動かない理由も、個人の能力ではなく、この循環で説明がつきます。

偏差値秀才の対義語は「本当の秀才」

知育・徳育・体育の3つとも高い人をリーダーにする

戸塚は偏差値秀才の対義語にあたる言葉として「本当の秀才」を置いています。処方箋として、知育・徳育・体育の3つとも非常にレベルの高い本当の秀才を相当数作って、彼らをリーダーとして日本を引っ張っていかせればいい、と述べています。

⚖️ 偏差値秀才と本当の秀才の違い:

覚える量考える力(知育)人間性(徳育)行動力(体育)
偏差値秀才高い育っていない育っていない育っていない
本当の秀才高い高い高い高い

注意したいのは、本当の秀才も「覚える量」は高いということです。戸塚は知育を否定していません。覚える量しか測らない選抜と、そこで止まる教育を問題にしています。

「文系の秀才をつくること」

戸塚には「今、一番しなくてはいけないことは、文系の秀才をつくること」という言葉もあります。理系は科学の方法論(再現性・検証)が訓練に組み込まれているのに対し、文系は知識の蓄積だけで評価されやすく、人間性と切り離されたまま上に行きやすい、という問題意識です。

「本当の秀才」が知育・徳育・体育すべてを求める一般形だとすれば、「文系の秀才」はその中で最も不足している領域を名指ししたものと読めます。両者の関係を戸塚自身が整理した記録はないので、ここでは並べて置くにとどめます。

似た言葉との違い:高分低能・Excellent Sheep・学歴エリート

「試験はできるが、それ以外が伴わない人」への批判は日本だけのものではありません。似た言葉と比べると、戸塚定義の輪郭がはっきりします。

中国語の「高分低能」

中国語の**高分低能(ガオフェンディーノン)**は、百度汉语の定義によれば「学業成績は優秀だが、自立能力・対人能力・実践能力が薄弱である現象」を指します。受験偏重教育(応試教育)への批判の中で使われる言葉で、2005年に香港大学が中国本土の入試トップ11人を不合格にしたことで広く注目されました。

漢字で意味が通るので、日本語の偏差値秀才に最も近い言葉です。ただし高分低能が言う「能」は生活力・実務能力の欠如で、戸塚の三本柱で言えば体育(行動力)に近く、徳育(人間性)には触れていません。

海外のエリート批判(Excellent Sheep・Intellectual Yet Idiot・メリトクラシー批判)

🌏 英語圏の類似概念:

  • Excellent Sheep(ウィリアム・デレズウィッツ、2014年。邦訳『優秀なる羊たち』):名門大学の学生を「与えられた課題は完璧にこなすが、目的も自分もない優秀な羊」と描いた本。選抜制度が人格を作るという因果の向きは戸塚と同じ
  • Intellectual Yet Idiot(ナシーム・タレブ、2016年のエッセイ):自分の判断の結果を自分で被らない専門家・知識人階級への批判。戸塚の「現場を軽んじる」「責任を取らない」と重なる
  • メリトクラシー批判(マイケル・ヤング『The Rise of the Meritocracy』1958年(邦訳『メリトクラシー』)、マイケル・サンデル『実力も運のうち』2020年):試験で選ばれた者が統治する制度そのものの帰結を扱う。戸塚の「配置」の議論に対応する層

日本語の「学歴エリート」「受験エリート」も近い言葉ですが、これらは属性(学歴が高い)を指すだけで、何が欠けているかを言っていません。

欠けているものを特定し、処方箋まで出しているのが戸塚定義

似た言葉を並べると、共通点と違いが見えます。共通しているのは「試験で選ばれた人が、選ばれた後に期待どおりに機能しない」という観察です。違うのは、その原因の置き方です。

高分低能は「能力が低い」と言い、Excellent Sheepは「目的がない」と言い、タレブは「責任を負っていない」と言い、メリトクラシー批判は「制度が傲慢を作る」と言います。どれも観察としては正しいのですが、何が欠けていて、どう作ればいいかまでは言っていません。

戸塚定義は、欠けているものを「徳育(人間性)と体育(意志・感情=行動力)」と特定し、それが「叱られない・否定されない教育」と「知育しか測らない選抜」で欠落すると説明し、処方箋として「三つとも高い本当の秀才を作ってリーダーにする」まで出しています。原因・類型・配置・帰結・処方箋が一続きになっている点が、他の言葉にはない戸塚定義の特徴です。

まとめ:偏差値秀才とは「覚える量だけで選ばれた人」

偏差値秀才とは、戸塚宏の定義では、試験で測れる「覚えた量」だけが高く、知育の目的である論理的思考力も、徳育(人間性)も、体育(意志・感情=行動力)も育っていない人です。偏差値は覚えた量の指標であって考える力の指標ではない、というのが定義の核心で、偏差値の高さを頭の良さと読み替えるところに混同があります。

特徴は、自分が馬鹿だと思っていないこと、合理化して反省できないこと、現場を軽んじることです。戸塚自身が「俺はもともと偏差値秀才やった」と語り、大学のヨット部で己を知ったことを転機として挙げています。

偏差値秀才が生まれるのは、入試が知育しか測らないことと、叱られない教育が徳育を空にすることの二つが原因です。選抜を通った偏差値秀才は司法・立法・行政・マスコミに配置され、教育改革が30年動かない理由も、責任を取らない構造も、そこから説明されます。対義語は「本当の秀才」で、知育・徳育・体育の三つとも高い人を相当数作りリーダーにすることが戸塚の処方箋です。

偏差値秀才についてよくある質問

偏差値秀才という言葉は、学歴や高い成績を否定しているのですか?

否定していません。戸塚の「本当の秀才」も覚える量は高く、知育は三本柱の一つとして必要です。問題にしているのは、覚える量しか測らない選抜と、そこで止まる教育です。

難関校の出身者は全員が偏差値秀才なのですか?

違います。偏差値秀才は「覚える量だけで選ばれ、考える力・人間性・行動力が育っていない人」を指す類型で、学歴は条件ではありません。ある経営学者はこの言葉を「偏差値秀才は難関試験合格者の全体ではなく一部」と説明しており、戸塚定義とも整合します。

偏差値秀才という言葉はいつからあるのですか?

年が確認できる古い記録は1987年3月の衆議院文教委員会で、新聞の見出しとして引用されています。戸塚の造語ではありませんが、この言葉に構造を持った定義を与えた記録は戸塚以外に見当たりません。

自分が偏差値秀才だと思ったら、どうすればいいですか?

戸塚の答えは「己を知る」ことです。戸塚自身は、覚える力が通用しない場(大学のヨット部)で他人に抜かれる経験をして、自分の至らなさを知ったと語っています。知識で優位に立てない場に身を置くことが、戸塚の言う徳育と体育の入口です。

参考サイト・出典:

目次